わかるとできる?1

 昔の厳しい武術の修行では、術は自得するもので形は教えても術は教えないとか技は盗むものなど言われることもあって、術理の本質や根幹といったものを理解できるまでに相当な期間と労力を要するものだったそうです。

 八光流柔術の画期的だったところは、この術理への理解までを従来と違って惜しみなく伝えるカリキュラムを確立したことだと思います。

 この「理から入れば上達早し」なカリキュラムにより、昔日の武術のように理解にいたる前にあきらめたり脱落したりという不安要素が小さくなった恩恵の反面、いわゆる下積みの期間が短くなったぶん術理の理解にいたれたとしても体や動きが追い付いてこずに、わかったはずなのにできない!?という悩みに直面することがあります。

 名人の先生がたから術理の根幹が形ではないと言われつづけた術理の理解にいたった時、まさに目からウロコが落ちたような感動を覚えます、

 しかし、初歩の術理のようなものでも根幹・抜本的なことがそれまでの自分の有り方にとって代わるというのには相当な時間がかかります。コンピュータにたとえるとどんなに素晴らしいプログラムのソフトを手に入れたとしても、ハードの処理能力が足りなければ使い物にならないのと同じで、しかも人間ですから機械の部品のように簡単に取り換えたり拡張することはできません。どうしてもソフトに見合ったハードになるまでに成長するのを待たなければいけないのです。

 このころの「やるべきことがわかっているのに、そのようにできない」時期は非常につらいものがあります。とくに八光流は三大原則『挑まず逆らわず傷つけず』に言い表されているように、作為が強く濃く働くほど上手くいきません。向上意欲があって頑張っているときほど、どんどん本質から遠ざかっているような感じがしてモチベーションを保つのが難しくスランプになってしまうこともありました。

 どんなに素晴らしい術理を頭で「なるほど、かくあるべきだ!」と理解しても、やはり何事も同じだと思いますが根幹の部分の抜本的な改革しようとするのは非常に手間も時間も根気もかかるもの。身体の癖や普段の動きや物事の思考や感じ方といったもろもろは、それが習慣となっていて居心地がよいと感じているので、既得権益を守ろうと抵抗勢力となって立ちはだかってきます。

 そうして自分自身のことなのに改革改善が遅々度して進まないと、「自分の理解が不十分なのではないか?」と不安になったり、ひどくなると「本当はもっと良い術理があるのではないか?」などと疑いだし、他流や他所の運動理論などを生かじりして自分で我流な術理をつくって試したりという「下手の考え休むに似たり」の落とし穴にはまりがちです。

 私がそのような落とし穴にはまらぬために留意したのは、我流にならないよう本部行事や師範大会に定期的に参加して古参の先生がたや正しく修得された先輩師範たちに何度も手直しをしていただくことでした。
 そうした経験をへてからは根幹的な術理の理解に体と心が育って追い付いてきてくれるまで、じっくり辛抱するべきだという考えに変わりました。そしてその長い期間になにをやっているべきかと考えて選択したのは「形のこともキッチリ整える」ことです。

 根幹術理のことは常にメインテーマとして心がけて経過観察するようにしつつ、同時並行でサブテーマとして形のことをひとつずつ課題にして取り組みました(事によっては保留して優先順位を変えたりもしましたが)。形のことは自分で見て確認できることなので取り組みやすいですし、改善された部分はすぐ実感として得ることができますからモチベーションを保つのにとても役立ってくれました。そうやって稽古を継続して根幹術理も少しずつ理解に成長が追い付いてくると、徐々に形も活きたものとして頼れる存在になってきましたので、迂遠のようで堅実な取り組みだったのかなと考えています。

 形のことはどこまで行っても枝葉でしかありません。しかし枝葉もしっかりしていないと根幹も育たないと思います。
 芽が出た(理解)後は、枝葉(形)の見栄えばかり気にして好き勝手いじくりまわせば枯れてしまいますし、根幹(術理)さえできていればよいと思い込んで根に過剰に水や栄養をあたえ過ぎれば腐ってしまいます。
 どちらにも偏らない上手な経過観察の仕方と取り組み方をいまだに模索中です……。

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テーマ:武道・武術 - ジャンル:スポーツ

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