【柔術みちしるべ ~稽古帳のすすめ2~】

【稽古帳のすすめ2】

稽古帳を書くコツ・注意事項その①『自分の考察や推論・自論は書かない。』

 稽古に熱心に取り組む人ほど、疑問や考察・推論・自論は湧きやすいもので、そのこと自体は「自分の頭で考える」ということにおいてはとても積極的で、むしろ望ましいことと言えます。

 しかしその自分の考えを、稽古帳に書く・文章化するということは個人的な経験から苦言すると「避けるべきこと」とだというのが今回述べたいことです。

 頭で考えているだけ・心に想うだけの考えであれば上達の害になることは少ないですし、むしろもっと知りたいという好奇心の基として稽古へのモチベーションの糧になるので好ましいのですが、考えたらそばからすぐ文章にして顕在化してしまうと、自分の考え・自論が確固たるものになって素直に師からの教えを受け取ることにとっては大きな邪魔になりがちです。

 八光流柔術に限らず、武術武道として真っ当に成立している流儀流派においては全伝を学んでいない者がどれだけ知恵を働かせても解き明かせない深淵な学びがあるものです。

 にもかかわらず、早いうちから「私はこうだと思う」という考えが顕在化し文章化されることが繰り返されて自論が補強されると、師から伝えられる内容をそっくりそのまま素直に受け取ることができずに、無意識に稽古中に自論に適合するものだけ選別して記憶に留めるようになってしまいます。

 ……以上が私が実際に犯した過ちです。

 文章化・顕在化しないことで、自論にたいしての執着を強く持たずに済むので、師から「それは違う」と否定された時・「本当はこうだ」と示された時に、抵抗なく自論を手放してありのままに受け取ることができるのが大切でありコツなのです。

 私の場合は、入門当初からさらに凝り性や資料収集癖が災いして、同系他流の技型と比較して考察したり、当時流行っていた諸々の運動理論と照らし合わせたりと、どんどんとこじらせてしまっていました。

 いま当時の稽古日記を読み返すと、「よくもまぁ……。こんな的外れなことを熱心に書き記したものだなぁ」と呆れるのを通り越して恥ずかしさで悶絶してしまうくらいです。

 この【柔術みちしるべ】ではこれまで何度か「他流の術理や、他所の運動理論を安易に取り入れないように」といったことを述べてきましたが、それはこのような自分の苦い体験からきていたことでした。

 私にとってかろうじて幸いだったのは、このような他流の術理や他所の運動理論で理論武装したような小賢しい私の技を、師匠は完全に封殺してまったく効かせずに真向から全否定しつつ、私を5年近くの長きに渡って「なんだか難しく考えてるみたいだげんちょも、本当はもっと簡単なんだでなぁ~」と言いながら昔ながらのシンプルな八光流の技で叩き潰し続けてくれたことです(よくもまぁ見捨てられなかったものですねぇ……)。

 20台半ばで入門して体力的には申し分ない時期から、80代のお爺ちゃんに自分の技は効かないのにこちらは叩き潰されるという年月を5年近くも過ごすうちに、ついには全面降伏というか自論を棄てて素直に師匠に学んだことに取り組むようになって、稽古日記にも自論をほとんど書かなくなり、ありのままに師の技を写す努力をするようになりました。

 そうして1年ほどたってようやく技がある程度安定して効くようになって、本部に師範教伝を受けに行くお許しを得ることができました。

 過ちに気づくのに5年近くもかかったのは、私があまのじゃくで強情過ぎたためですし、あの無駄足が無かったら今現在の技量ももう少しは上のものになっていただろうに……という後悔も絶えません。ですので、前回申したように「切実な注意勧告だと受け取って」いただきたいのです。

 最後に、他流の術理や他所の運動理論が間違っているわけではないことを誤解の無いように補足します。八光流柔術の技型に安易に混入することが間違いだということであって、逆に言えば八光流の術理や運動理論を他流や他のスポーツの競技者が安易に参考にするのも注意が必要ということです。

 巷の武術武道の業界に溢れる「武術の究極の領域は一つ」とか「究極の運動理論は一つ」という考え方や宣伝文句は耳当たりも良くとても魅力的ではありますが、実際にはどれもまだまだ未完の学説でしかなく、それを鵜呑みにすることは学ぶ者の目を曇らせ、流派流儀を純粋に学ぶことにとっては、大きな障害になりうるということは知っておくべだと思います。

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テーマ:武道・武術 - ジャンル:スポーツ

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