型は変遷する2

 八光流の古参の先生には、現在でも本当に凄い名人の先生達がまだいらっしゃいますが、そんな先生達の指導を受ける機会を得る度に、その技や振る舞いがあまりにも自然すぎて自分との実力の開きの広さを、まざまざと見せつけられて呆然とすることもあります。

 そんな名人の技をたとえて言えば、山登りにおいて天然の岩壁を前にしたときに命綱無しのまま素手でひょいひょいっと高いところまで登っていって、上から「ほら、簡単でしょ?難しく考えないで登っておいで!」と呼ばれているような気分になります。
 そのくらい私達のような駆出し師範からしたらとんでもないことを極めて自然にやって見せて、ほら、やってごらんと当たり前の様に振ってきます。

 それに対してたとえると、今様の型とはボルダリングのジムようなものだと感じます。
 コース(ルール)が決められていて、どう手足を運んだらよいかのヒントが見つけやすくなっており、体力や経験に合わせて初心者から上級者までコースが明確に分けられていて無理なく上達でき身体の使い方も自然と覚えられる。しかも下に厚いマットが敷いてあり、怪我の心配も少なく安心して気軽に始められるといったように。

 私の場合、わけもわからずいきなり言われるまま岩肌を登らせられて、出だしの低い高さで悩んで迷って何度もなんども転げ落ちて痛い思いを繰り返し、慣れてしまって怖さがかなりマヒしてきた後に、ボルダリングジムに出会ってノウハウを覚えたら岩肌も前よりもずっと高いところまで登れるようになったという感じです。
 しかし、古参の先生方や師匠などは、もっともっと剣呑な岩肌を超えた遥か上で「おーい!どうした~?なにしとる、まだ来ないのか~」と呼んでいる気がします。

 しかし師匠もそうでしたが、古参の先生達のなかには「今の技は変わってしまった!」と嘆かれる先生もいらっしゃいました。
 先ほどのたとえをまた借りますと、最初から天然の岩肌を登る努力をしてこられた先生達にしてみれば、人工の壁を決められたように登って、しかも落ちても安全だからどうにも緊張感もゆるい。あんなものを登っていて、本物の山が登れるものか!とお怒りといった感じだったのでしょうか。

 本物の山(実戦)に登る(護身の機会に遭遇する)場合にそなえて稽古しているわけですから、古参の先生達のお怒りもごもっともなのですが、いざ自分も後進に指導し引率する立場になってみると、岩壁を前に絶対ムリ!と決めつけて挑戦もできないひとが増えてきた今の時勢の傾向に逆らってもいられません。

 岩肌を登るか登らないかは自己判断!登るリスクは自己責任で!では、仲間も減るばかりで立ち行かないですから、どうしてもそうはできません。
 なので、まずはボルダリングジムから始めてみましょう!という提案をするのと同じ感覚で、文武塾では先ず今様の型をしっかりと修得していただくことを当面の目標としています。
 
 そんな私自分自身、古参の先生達に少しでも追いつこうと悩みもがいて工夫しているうちに、少しだけ以前より高いところまで登れるようになり、なってみたら今度は登る楽しさや面白さも芽生えてきました。

 できることならこの楽しさを多くのひとに知ってもらって、分け合ってみんなで登ってみたい!

 そんなひとたちとパーティーになって知恵を出しあい力を合わせたら、もっともっと高くまで登れるのではないか?

 そのような気持ちから文武塾道場を始めましたし、はなはだ未熟者で偉そうに語るほどの実績が無いにもにもかかわらず、この柔術みちしるべで八光流柔術について思うところを述べている動機になっている次第です。

 
 次回は新しくなっていくことの必然さに対しての、古いものを受け継ぎ残していくことの大切さについて考えてみたいと思います。

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テーマ:武道・武術 - ジャンル:スポーツ

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