掛の稽古3

 稽古において掛がしっかりと攻めてあげることは、取にとって攻められる圧を捌く体験を積むという大事な意味があると同時に、掛にとっても『負けて覚える』という体験を積めるという貴重な意味があります。

 掛が取の技を積極的に受けてあげるという手抜きの稽古ばかりしていると、心の深いところではお互いに「技に効いてもらっている・効いてあげている」という疑いから脱却できないままになってしまいます。
 そうなっていては、実際の護身の場面では、「この野郎!!」とぐわっとプレッシャーを掛けられたときに恐怖で硬直してしまいます。稽古でどれだけ上手に力が抜けていても、実地でそれが活きなければ費やした時間や労力が無駄になりますし、『護身道八光流柔術』の名乗りに値しないことになってしまいます。

 しっかり攻め掛かった稽古で、専守防衛の八光流の技の真価によってくりかえし負かされる体験を積むと「うかつに襲い掛かるのがいかに不利・不合理か」ということが身に染みて理解できるようになります。

 八光流の一般技・基本技型で構造的に明示されていることの大きなひとつは「暴力をふるう者は自ら崩れており、力みによって全身急所になっている」ということです。
(詳しくはBABジャパン『凄い!八光流柔術~短期修得システムを解明~』の【第11章“させる”技法】等を参照のこと)

 このことは、なかなか文章で読んだり動画で観ても理解していただけないようです。だからこそ稽古でくりかえしてしっかり攻め掛かって体験しないといつまでも疑いから脱却できないままです。

 自分自身で何回やっても負けるという体験を積むことには、なににも代えがたい説得力があります。

 その説得力があって、ようやく自分が学ぶ八光流柔術という流儀の技と術理を心底から信頼して、危機の際に自分自身の安全を託すことができるようになるのだと思います。

 「この野郎!!」とこられたとき、「うわっ!怖い!!」ではなく、「しめた!!」と思えるようになることが理想です。たとえそのくらいの余裕がなくても、ちゃんと型で圧に対処する稽古を積んでおくと咄嗟に動いてもオートマチックに捌けるようになりますの大丈夫です(ただし、そのためには当身や撞木足の運足体捌きを省略しない型を練習しておく必要があります)。

 ……もしかすると「そんな単純に襲ってくる奴ばかりじゃないだろうに」と私の述べたことを『ぬるい』と物足りなく感じる八光流学習者もいるかもしれませんね。
 そのようなひとは、『武術向き』の資質の持ち主ですので、ぜひ帯が紫になるように頑張っていただいて、八光流の武術の領域まで学んでいただきたいものです。

 八光流奥伝の『師範技~皆傳技~三大基柱』という階梯ではそのような相手、つまり『いやらしい奴~厄介な相手~手練れ』に対処するための武術領域のことに段階的に学びます。師範という肩書になる以上、流儀の名を預かり軽々しく技を失敗できない立場になるので責任はとても重いですが、護身術以上の技量をもとめるひとにとっては楽しい学びになることでしょう。

 閑話休題。

 八光流柔術に護身術という教養をもとめるひとにとっても、あるいは武術としての実戦性をもとめるひとにとっても、その基礎・大前提となることは今回述べた「暴力をふるう者は自ら崩れており、力みによって全身急所になっている」ということになっています。
 武術的になると、用心して守りに入っている相手や探るように対峙する相手やこちらの虚を突いてこようという相手などが想定になりますが、それらの相手にいかに悟られず「暴力をふるっている状態」と同じに誘導するにはどうしたらよいのか?を学ぶのが奥伝なので、八光流柔術で対処するなら護身術的だろうが武術的だろうが、その心と身体と技の術理の中心はまったく一緒です。

 こうやって文章にしたり、口で言うことは実に簡単です。

 しかし実際に体現するには流儀の技と術理を心底から信頼していなければ無理な話です。ですので、その流儀の技に完膚なきまでに負かされるという体験は、なににも代えがたい貴重な体験といえます。

 私自身は手抜きタイプとは逆の凝り性の劣等生で、八光流に入門したときから80歳を超えたお爺ちゃんの師匠に床に叩きつけられ、極め潰されるという日々を5年近くもへて、武術的な抵抗とあがきをやりつくしてようやく疑いから脱却できたような、実に疑り深すぎてあまのじゃくな性格で非常に遠回りしてしまいました。
 だからこそ、これから八光流柔術を学んでいくひとたちには手抜きや凝り性によって無駄な疑いを抱いてしまって余計な寄り道をしてほしくはないと思い、掛の稽古のことを口うるさく言ってしまうわけです。

テーマ:武道・武術 - ジャンル:スポーツ

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